装備一式。
防水ランニングシューズ(サイズ3cmUP、インソール5mm追加)、ゴーグル(超曇り止め特注)、ストック(グリップに凍結防止加工)、保温ボトル(2.7L分)、極厚ポリ袋(水の川渡り用)、バーナーと燃料(雪を溶かしお湯を作る)、防水マッチ、ライト(バッテリー保護具特注)、腹巻型ベルトポーチ(ウェア内で保温)など。
レース用軽量ソリ(1.6kg、約5万円)、ハーネスベルト(Amazonで市販パーツを買って組み合わせ)、連結ポール(842g、特製品)、バッグ(150L)、寝袋(マイナス40℃対応の特注)。
食料一式。
計5万kcal。成人男性22日相当。初めてレースでウインナーを揃えるが大成功! 凍ってもお肉を食べると元気になる。だが日焼けで裂けた唇(口)ではポテチを食べることが難しく、チーズは小袋内でグチャクチャになって、手袋をつけたままでは食べれない…大失敗。
これまで世界中を走ってきた中で、最もサバイバルなレースだった。
マイナス40℃でも活動・野宿ができることが前提にあり、さらに主催者より詳細なコースデータや緊急時対応が提供されないため、自らでGPSデータと機器、危機管理計画を準備する。
加えて、「寒さ」、「長い夜」、「歩く」という、僕が苦手とする要素ばかり。僕は特に歩くのが苦手で、他のどの選手よりも遅れをとってしまう。そのため他選手たちが寝ている間に、睡眠をギリギリまで削りながら睡魔の中を進む。無茶な作戦だが、僕にはこれしか戦える道がない。
2019年に同大会240km出場時には、4日間を平均1時間15分睡眠で追い込んだものの、他選手にはまったく着いていけなかった。
「足が千切れそうなほど頑張っても抜かれてばかり」、「どれだけ眠気を我慢すればいいんだ」、「僕には無理なんじゃないか。もう諦めたほうがいいんじゃないか」。
拒絶感や絶望感に近い感情を抱くほど精神的なダメージを負ってしまっていた。
「でも、もう一度立ち向かおう。やれるだけやってみよう」。
自分を奮い立たせながら2年間、準備を積み重ね、いざ本番を迎えた。
今回はコロナ禍。入出国に関わるPCR検査や書類、同様にアメリカでのコロナ関連対応が必要となり、普段のレースよりも何倍も準備に追われていた。
たとえ万全の準備で迎えても、もし万が一コロナにかかっては出国できないし、レース出場もできない。もちろん参加費や航空券代も返金されない。スタートを迎えるまで、心はずっと落ち着かなかった。
レース当日は気温マイナス10℃。空一面に雲が覆いかぶさり、じっとしていると足先の感覚がなくなるほど冷たい風が吹く。朝から行ったPCR検査を無事にクリアし、選手一同はスタートを切った。
踏み出すたびに雪に足をとられ、足裏はグッと強く圧迫される。重さ22kgあるソリの負荷がずっしりと身体にのしかかる。
チェックポイント1(40km地点)に8時間で到着した僕は、30分休憩の後、再びライトひとつで駆け出していった。真っ暗闇の中を、予めルートを記したGPS機器を確認しながら進む。コース上にはバイク(自転車)部門の選手たちの轍が残っており、その形跡も大きな参考とした。
3~4時間経っただろうか。ふとGPS機器を見ると、なんと、コースが大きく外れている!
足元には自転車の轍がある。少し前の選手からコースを外れていたのだ。人が通った形跡があることによって、勝手な安心感がでてしまっていた。
再びGPS機器を確認すると、2時間分ほどの距離を経過していたように見える。地図上ではこのまま数km北上できれば、正規ルートに合流する。それが最も近く、速そうに思えた。
「このまま進むべきか?」、「戻るべきか?」、「ひとりで雪原を横切って最短ルートを切り開くか?」。
とにかく焦る気持ちを抑え、立ち止まって冷静に考える。思いつく選択肢を検討した結果、〝ひとりで雪原を進む〟のは遭難リスクがあるためにやめ、このまま進む判断を下した。
そして5時間を迂回に費やし、ようやく元のルートに合流した。序盤から“フルマラソンを1回走るほど”の時間と労力を消耗し、大きな痛手となった。
その後、僕のレース模様を撮影するためにバイク部門で選手出場してくれていた大和田くん(サハラ砂漠1000kmでも撮影同行)と接触した。
だが足が埋もれるほどの深い雪により、15時間以上自転車を“押し”続けた大和田くんは疲弊しきっていた。とにかく体調異常や凍傷などが起こらないことを願い、僕は先を急ぐことにした。
1gでも軽量化を図りたい状況だが、自らで空撮もすると決め、650gもあるドローンを預かった。
それから凍った大きな川の上を北上していく。気温マイナス30℃まで冷え、吐く息は瞬く間に白く凍りつく。汗(熱と蒸気)をかいてあったシューズやウェアは外側からどんどん凍り始め、気が付けばアウターのウォームパンツのポケット内側までもが氷と化していた。
「やばい!やばい!」
マイナス30℃で一旦凍り始めると、大気中の湿気を吸着して氷が増大し続けていく。どうすることもできず、とにかく体温が下がって凍えないよう一晩中を進み続けた。
徐々に腫れ上がっていく足裏の痛みや、かかととシューズの摩擦による傷で悲鳴をあげる。さらに睡眠不足によって、白い雪原が紫色のラベンダー畑に見える幻覚が現れ始めた。
現実と幻の淵を彷徨いながらレースは続き、どうにかチェックポイント7(376km地点)をスタートから161時間(6日と17時間)で通過した。
雪の中で重いソリを曳き、富士山3776m以上の高さを越えてきた。膝が割れるように痛く、背中に痺れがでるまで全身に異常をきたしている。後続選手は次々とリタイアとなり、順位は8位となっていた。
残り184km。
もう眠いどころじゃないし、痛いどころじゃない。挑み続ける限り、終わることのない苦しみ。
だが極寒の中で休憩して一度体温を落とすと、とたんに体は動かなくなる。足裏の感覚が悪化して、涙がこぼれるほどに痛い。だから苦しくても、心を奮い立たせて足を踏み出す。
ゴールに辿り着くまで、86万歩。日本で応援してくださるみなさんを思い浮かべて元気をもらいながら、ただ自分を信じて。
そしてラスト184km(50時間)を睡眠1時間で押し切った。ついに念願のゴールだ!
主催者のカイルやスタッフ、大和田くんに迎えられてフィニッシュゲートへと辿り着いた。
達成感、開放感、安堵の気持ちなど、ゴール後に湧き出る思い。だが極度の疲労と眠気のあまり自分の感情がよく分からない。こんなこと初めてだ。
ただひとつはっきり分かることは、とても幸せな気持ちに包まれていた。このチャレンジが出来て心から良かったと。
このコロナ禍で答えのない課題や苦労は数えきれないほどありましたが、みなさんの助けを借りながらやり遂げることができました。これまで日本人が成し得なかった壁を、またひとつ乗り越えることができました。応援ありがとうございます!
地平線をいくつ越えたか分からない。もう何日経ったかも分からない。昼も夜もずーっと、ただただ永遠と続く砂漠を進み続けた。
終わりがないんじゃないかと思うほど長かった道。何度も心折れそうになった道。これまで6年間必死に生きてきたアドベンチャーランナーとしての道。そのすべてが少し報われたような気がした。
そして辛いとき、いつも応援してくださるみなさんの顔が思い浮かんだ。思い出に浸っては元気をもらった。
自分ひとりではなく、みなさんと一緒にチャレンジすることができたからこそ、ここまでくることができた。こうして人生を賭けたチャレンジができ、ほんとうに幸せだ。