コースは主にアイディタロッド・トレイルを通る。トレイルといっても凍った川の上200kmや凍った海の上50kmを進むこともあり、氷点下の時期にのみすべて繋がる道である。
この道は日本の先人「和田重次郎(愛媛県松山市出身、1875-1937)」がスワード商工会議所から依頼を受けて開拓し、後にその道があったお陰でノーム(町)での感染症(ジフテリア)が蔓延した時に多くの命が救われた。これを記念して大会が始まったとされる。参考/和田重次郎 顕彰会(https://wadajujiro.com/)
装備一式。
上:極地ウェア、予備ウェア、防水シューズ、オーバーブーツ(靴の上から履く防寒靴)、燃料ヒーター(ガソリン)、除菌スプレー、防水マッチ、衛星通信機、GPS時計、サングラス、皮膚保護クリーム、テーピング、ヘッドライト、イヤホン、保温ボトル、モバイルバッテリー、ストック、救急道具、医薬品など。
下:ソリ、ハーネスベルト、寝袋(-40℃対応)、スリーピングマット、スノーシュー
食料一式。
完全食(粉末)、ビスケット、スナック、あられ、ようかん、パン、カルパス、アミノ酸、粉末糖など。約15万kcal。
地球最難関に挑みたい。その一心で目指してきたレース、『Iditarod Trail Invitational』。
マイナス40℃になるアラスカで、距離1600km、制限30日のノンストップレース。大会の緊急時対応はなく、自己責任で野宿しながら進む。後半800kmは選手自らでルート沿いの村に郵送する荷物を頼りに進む。チェックポイント(以下CP)は21ヶ所。ルートデータ提供はなく、選手自らで計画、判断する。
これほどまで難しいレースは他にはなく、まさに求めていた挑戦だった。
2月26日14時。青空を貫くような号砲で冒険が始まった。1600kmを足で挑む参加者は14名。
これまで6年をかけて参加資格を獲得し、試行錯誤を重ねた荷物を乗せたソリは重さ20kg。昂る気持ちで失敗しないよう、身体のコンディションと装備アイテムにチェックをしつつ着実に進んだ。
4日目の夜23時、248kmのCPロッジについた。前回出場よりは早く進めている成長事実に自信を感じる。とはいえ毎日平均1.5時間の睡眠では、さすがに疲労が酷い。次CPまで56km、20時間は要する峠越え。火照る身体を無理矢理に3時間だけ休んだ。
朝5時、暗闇の中でスタート。山から吹き下ろされる激しいブリザード。前から選手が逆走してきて、「続行困難だ、避難しに戻る」と言う。行くか退くか。夜明けまで待った方が安全だが、峠を越すのが夜になると別の危険がある。ならば、撤退できる体力は残してこのまま進む。
「どれほど厳しくても、心強く」。
と言い続けて12時間。最高地点1021mのレイニーパスに辿り着いた。この先には北米最高峰の山“マッキンリー”もそびえ立つ。美しかった。
この区間で多くの選手がリタイアした。想定時間、コース、天候、時間帯、体力、食料と水分の残量など、あらゆる条件を考えて進まなければならない。進むべき時は寝ずに進むこと。休むべき時は昼でも眠ること。それを30日間行い続けることがこのレースの難しさ一つ。
そんな困難を越えたCPで提供されたホットドックは最高だった。散々苦労をしたのにも関わらず、「このために進んで来た!」。とさえ思えてしまう。食べたら元気になる単純な人間で良かった(笑)。
死の恐怖は突然やってきた。気温マイナス40℃になり、足は凍っている。1分でも立ち止まろうものなら、指先が千切れそうに痛い。とにかく体温を落とさないよう動き続ける。だが疲労と睡魔が酷くなり、思い切ってマットと寝袋で野宿を試みた(テントは軽量化のため持参なし)。
数十分間経っても一向に温かみを感じない。むしろ全身がどんどん震えてくる。
まずい、このままだと死ぬ。決死の思いで寝袋から抜け出し、今にも感覚が飛びそうな指で身支度をする。体温よ、戻れ! 戻れ! 死に物狂いで歩き通した。
6日目にして33時間の不眠行動。もう次はない。野宿で凍った寝袋やウェアは暖かいCP毎で必ず乾燥させるようにした。
16日目。854km地点からの200kmは、アラスカ州最大の川「ユーコン川」を北上する。風を遮る木々がなく休める場所はほとんどない。3〜4日かけて進む、極めて厳しい難所となる。
そのため、食料など潤沢に補給できるよう荷物を送っていたが、郵便局が日曜日定休で受取り不可。明日まで待つなんてできない。急遽村人などに助けを乞うと、3日分の食料を快く分けてもらえる。
さらに幸運にも3人並走して進むことができた。そのひとりのビートは53歳のスイス人で、過去6度もこの1600kmを完走し、2度優勝のレジェンド。もうひとりのティエリーは53歳のフランス人。サハラ砂漠1000kmなど多々優勝を飾る、アドベンチャー界で最強選手のひとり。単独行では危険が多く、グループ行動が本当にありがたい。
その後、ふたりのペースについていけず単独になったぼくは、25日目で1451kmの村に到着した。そこで村人から予期せぬ情報を聞く。
「明後日の夜からストームがくる。雪風が激しく避難必須。2〜3日間続くだろう」と。
今のぼくの体力と経験値ではストームが来る前にゴールができない。安全を優先して、ゴールまで残り80kmのシェルターで避難するしかない。だがストームが長引けば制限に間に合わないし、通行不可になる可能性もある。
この25日間できることはすべてやってきた。どうにかしてでもこのまま突き進みたいが、命は守るためには天命を待って避難するしかない。頭では分かってはいるが、悔しさが、感情がコントロールできない。溢れる涙をこらえながら、シェルターへと進んでいった。他選手は全員レースを終えており、最後のひとりとなっていた。
衛星通信を通じて毎日メールをくれていた妻に、挫けそうになる心を支えてもらった。日本やアラスカからの応援に、踏み出し続ける力をもらった。そしてみなさんの願いが天にも届き、ストームが弱まった隙間でゴールへと突き進んだ。
終着の街「ノーム」に近づくと、行き交う人がお祝いや称賛の声をかけてくれる。夜明けで徐々に見えてくるゴール。何人もの人たちが歓声と共にフィニッシュの横断幕を持って出迎えてくれる。
「終わった、長かった、やったー!」。
もう、シンプルな言葉しか出てこない。この29日間、この6年間。どんな言葉にも代えられない経験があった。人生で初めて本気で生きた。そう思えるチャレンジだった。
凍った川上が200kmあったり、激ヤバな寒さもあったけど、こんなにも素晴らしいトレイルを歩めて幸せだ。これまで世界中のレースや道を走ってきた中で、もう一度行きたいと強く思うのは、この「Iditarod Trail」です。